する贅沢から、しない贅沢へ

食生活改善

2014 10/5 (日曜日)

知足力

「やすらぎの里」というネーミングは、味わい深いものだなとしみじみ思います。

「山の行より里の行」という言葉がありますが、地に足のついた、生活に根ざした本質的な方法を提案していること。

そして、心身が好転していくときには「やすらいでいること」が大切であることを見抜いている点です。

自然治癒力が最大限発揮される条件は、力み、こわばり、とらわれ、はからいの反対だと思います。

病気をすると、往々にして「治りたい」という気持ちでいっぱいになり、原因を他物に求め、周囲を敵ばかりにして、前のめりに力が入ることで、心身をこわばらせ、結局、自然治癒力を減退させてしまうことになりかねないのです。

そこで、やすらぐために必須のスキルが、奇しくも大沢先生が提唱された「知足力」なのだと僕なりに解釈しました。

何が何でも自分で頑張る、自分の力でなんとかする、自分の思い通りになる、と考えるところに、やすらぎは生まれづらいのではないでしょうか。

言い換えれば、感謝の気持ちが芽生えづらいということです。

自分の力によるものであれば、正当な対価、報酬を要求することは当然です。

その反対に、自分の力でできることは限られている、周囲の恵みに生かされているのだと考えれば、いかなる報酬であっても、不満は起こらないのです。

何かをもらったり、自分に都合の良いことをしてもらった時に「ありがたい」と思うことは誰でも出来ることです。

犬や猫でも餌をもらえれば尾を振り喜びますが、物質的、利己的であることでは同じことです。

ところが人間ともなれば、自分の都合の良いことは当然として、すべてに対して「ありがたい」と思えることができる存在なのだと思います。

与えられるサービスの質や量、サプライズによって感動する心は、一時のもので、数を重ねれば、悲しいかなそのうち慣れて色あせてきます。

つまり、外に豊かさを求めるのではなく、内を豊かにしていくこと。

不幸な出来事や、病気、苦痛など嫌で堪らないことに対しても、自分を磨いてくれるものだと感謝できてこそ、本当の意味での永続的な「やすらぎ」があるのだろうと思います。

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2014 9/29 (月曜日)

マインドフルネス

世の中にはたくさんの健康法がありますが、健康法足りうるために必要なこと。

「マインドフルネス」

「今、ここ」の現実にきちんと向き合い、リアルタイムかつ客観的に認識の対象に気づいているということではないでしょうか。

その反対が「今、ここ」ではなく、まだ見ぬ未来や帰れぬ過去に思考が散漫に及んでいることです。

たとえば、この病気がさらに悪化していったらどうしよう?と未来に不安を覚え、病気になったのは、今までの生活やストレスに問題があったのではないだろうか?と過去を後悔する。

一見すると理性的で、建設的な思考のようですが、その思考自体がストレスであり、それではいつまでたっても心がゆるむことがありません。

「身心一如」

心が影響する体も同様に、いくら揉みほぐし、引き伸ばしたところで、本質的に緊張感を解くことはないでしょう。

後ろ向きの思考から無力感が募り、自分を責める、自己否定、自己嫌悪は、さらに人のせい、環境のせい、社会のせいと悪循環を招いていきます。

心はいつでも、自分を守るために、思考をしているのです。

しかし、それによって疲弊しているのも事実。

そこで、「今、ここ」に心を留め、味わい、楽しむことに専念してはどうでしょうか。

心身がフッとゆるみ、幸せな気持ちに満たされる、そんな自分が好きになり、自己肯定感から、前向きな言動が自然にあらわれてきます。

自分が病気であるという事実にとらわれ、症状に焦点を絞り、それをなんとかしようと試行錯誤するのもひとつですが、その全く反対に、病気から心を放し、症状はそのままに、「今、ここ」をただ感じてみます。

呼吸の流れ、筋肉の動き。

感じているときに、考えることはできません。
同時に複数のことに注意深くあることはできません。

そうした人間の法則を利用して、不安や後悔に費やす時間を最小化していくのです。

もはや気を病んでいない、「病気」でなくなっているという意味において、まさに「健康法」と言えるのではないでしょうか。

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2014 9/22 (月曜日)

生命が輝く本当のダイエット

現代を生きる我々は、WEBをはじめとしてテレビ、雑誌、書籍とたくさんの情報に囲まれ、もうすでに知識も豊富に備えています。

ところが体調が良い、ダイエットに成功したと胸を張って言える人がどのくらいいるでしょうか。

情報はあっても玉石混交で、なにが正しく、どれが自分に合っているものか、混乱しているのが現状ではないでしょうか。

また、良い方法を知っていたとしても、せわしない日常の中で、実践することがままならないということもあるでしょう。

やすらぎの里高原館は、まさにそういう人たちのための場でありたいと思うのです。

ただ単に見かけの痩身を求め、内面の健康は度外視してもかまわないという人には向いていません。

様々なダイエット法を渡り歩き辛酸をなめてきた人、「これを食べればやせる」といった短絡的なロジックにもうこりごりの人、誤ったダイエット法のために自分を愛せなくなってしまったり、本来はおいしく食べられるはずだった食事を敬遠するようになってしまった人たちこそ、高原館に来ていただきたいと思います。

「ダイエット」という言葉は、今でこそ「やせる方法」といった程度の認識ですが、本来は健やかな心身をつくる食事療法のことを言いました。

健やかな心身があって、その副産物としてやせる、つまり適正体重になっていくということです。

もっとも体重というのは各人の体質や生活環境を一切考慮に入れない画一的な数値ですから、それをもって心身の状況を語ることは到底できません。

その大前提に立てば、減量のためには禁欲的で壮絶なプロセスを厭わないという、今までの方法には疑問を抱かざるをえません。

心身を抑圧し不健全にさせてしまうような方法で、どうして健康的な心身をつくることができるでしょうか。

たしかに自分を厳しく律し、ストイックな方法を喜び勇んで行える人は、それで事足りることでしょう。

しかしながら、今までダイエットに挫折してきた人、今まさに体調不良に悩んでいる人というのは、意志の弱い自分と向き合いながら抜き差しならぬ状況で苦しんでいる人が多かろうと思います。

そうした人たちに高原館は発想の転換を提案します。

人間はそれほど単純ではありません。身心一如の言葉の通りつくづく重層的です。目に見える単純なカロリー計算では測れない複雑性をそなえています。

ゆえに根性論的な減食発想から心も体も満ち足りる快食発想へ歩みを進めていく必要があるのです。

縛られた心を解き放てば、生命が輝き細胞が活性化します。おのずと体重など気にする暇もないほどに自分を愛することができるでしょう。

今を輝いて生きてこそ、その肥沃な土壌に美しい花が咲き誇るのだということです。

つまり、我慢せず、がんばらず、無理のないあるがままの自分でいてこそ、今とても気持ちよく生きられるのだと思います。

そして、その「今」の集積が将来の自分を形作っていきます。

これを食べてはいけない、こうしなければいけない、これだから自分はダメなんだ、このように自分にも物にも善悪二分の判断基準を適用し、さばき、責め立てる「べしべからず」に縛られていては、いつまでたっても満たされることはなく、自分を許せず他人にも優しくなれないでしょう。

とはいえ、ダイエット法はもとより現代人を取り巻く環境は、不自然を極め、そのままでは感覚も感性も鈍く麻痺していまい、食欲や味覚など、本来は自然にしたがっていれば良かったものも狂いを生じてきています。

だからこそ、ある期間まとまった形で自らを見つめなおし、「快」センサーをリセットし再教育する必要が出てくるわけです。

本当の快を追求すれば、おのずと道が開けます。

我々は原点に立ち返って、ダイエットの本当の姿、ダイエットの王道というべきものを発信することで、歪曲されたダイエット理論によって苦しんでこられた方々、どこか心が満たされず生きづらさを感じている方々の、救いとなれればと思っています。

これが本当の自分だと胸を張っていえるように、ともに実践していこうではありませんか。

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2014 9/15 (月曜日)

人間としてのバランスをとる断食

多くの病める人を救ってきた沖正弘先生がこんなことを言っていました。

『私の道場では、食事はもちろんのこと、あらゆる総合的な訓練法を実に合理的に行なっていると自負しているが、それでも効果の出ない人もいないわけではない。それが一体どういう人たちかいうと、肉体面のことだけに懸命になって、精神面の浄化と進化をすっかり忘れてしまい、生活是正の努力を欠いている人たちなのだ。体のためになることだけをいくら求め行なっても、心と生活の是正、向上させることを併せ行なわないかぎり、けっして救われないのだと、ここではっきり申し上げておきたい。私は体の方が三、心の方は七の割合で訓練して、やっと人間としてのバランスがとれるのであると教えているが、まさにそのとおりではないだろうか。』

沖先生の言動に説得力があるのは、ご自身が結核を16年、癌を13年と29年間、病気で苦しんだ経験があるからだと思います。

弟子に「先生はどういう方法で癌を治したのですか?」と問われて、「癌を治すことをやめたから治ったのだ」と答えたといいます。

この言葉にはとても深い意味があるように思います。

最近、僕は食事に関して、その日に出会う食べ物に縁を感じるようになりました。

過去には食事療法の理論に固執し、食材の善悪を弁別し、作為的に食事をしていた時期もありました。

自分の思い通りに行えていれば、幸せですが、何かの拍子で崩れたり、不可抗力に出くわしたりすると、猛烈な負の感情に悩まされるわけです。

食事療法の効果を相殺し得る影響力を、心は持っているものだと経験から言えます。

人生を真摯に振り返れば、「すべてのご縁に生かされている」という事実に思い至ります。

今日眼前に出会う食事もまた、一人の人格に触れるのと同じような心境でありたいと思うのです。

食前の心構えが重要になるということでもあります。

ろくに「いただきます」も言わずに、例え言ったとしても中身が伴わずに言葉ばかり上滑りしている場合、往々にして食べ方も心ここにあらずで、散漫、煩雑になりがちです。

反対に、食べる前に心の準備、落ち着きがある時というのは、感謝の気持ちを持って意識的に心ゆくまで味わえるような気がします。

そうなると、食べ過ぎることもなくなるでしょう。

『自然食をとっていれば、体の状態も自然に保てるなどと思っていたら、それは勘違いも甚しい。 自然食を自然食そのものとして受け取れる体であるかどうかを、まず問題にしなくてはならない。』と沖先生も言っていますが、

「食べる」ということは、生きるための栄養を取るというばかりではなく、不必要になったものを中和し、完全に排泄できることと、エネルギーを消耗する生活を伴って、はじめて円満に食物から栄養をいただくことができるということを忘れてはならないと思うのです。

「食べること」に臨むとき、いかに心身の態勢を整えるか。

食前に呼吸法を数回行ってもいいと思います。

または「いただきます」と心を込めて合掌するのもいいと思います。

沖ヨガでは「栄養摂取の誓い」を唱えます。
「栄養は自分に良いものを取り入れ、自分に悪いものを入れず、不要なものは出し切ることであると知りました。今からの私は、自分の内在智の教えに従って、自分に適し自分に必要なものを取り入れ、不要で不適なものは出し切るよう努めます。」

声に出して言うことで、潜在意識に刻まれ、行動が次第に変容します。

浄土真宗では食前と食後にこのように唱えます。
「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうにめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。」
「尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。おかげで、ごちそうさまでした。」

曹洞宗では「五観之偈」を唱えます。

一つには功の多少を計り彼の来処を量る。
二つには己が徳行の全欠を忖って供に応ず。
三つには心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんがためなり。
五つには成道のための故に今此の食を受く。

意訳。  
第一に、われわれのいただく食には自然の恩恵をはじめ、多くの人々の労が費やされていることを忘れてはいけない。
第二に、食をいただくということは己のなすべき行いを果たすためであり。今日の自分にそれだけの資格があるかよく考えてみなければならない。
第三に、好きなものであっても貪りの心をもって食べてはいけない。また嫌いなものであっても怒りの心をもって食べてはならない。
食に対して迷いや過ちの心をもってはならない。
第四に、食は良薬であり、ゆえに己の体を枯死させないために服するものである。
第五には、今まさに人間としての真の道を成就させんがためにいただくのである。

そもそも食事というのは、自分が生きるために、他の生き物を殺すことです。

本来ならば、おのずと犠牲になってくれているものに対して、「すみません、ありがとうございます」の感情が沸き起こっていいはずなのです。

ところが、食べることがあまりにも日常的であり、慣れてしまうばかりに、感謝の気持ちもそこそこに、あたりまえにように食べてしまいます。

そればかりか、食物に善悪を決めつけ、自分かわいさに、より分けて食べるということは、利己的にすぎると言えないでしょうか。

その醜さは、これを対人に置き換えれば、すぐにわかることなのです。

モノと思えばできることも、それが生命と気づけば、躊躇されることもあるでしょう。

食事といえども、そこにおのずと人間的な感情があってしかるべきではないかと思います。

すなわち、感謝と懺悔です。

それを取り戻すために、日常性、習慣性を断つ、断食があります。

よりよく食べるために、食を断つ。

「断食」その語感から、食べることに対する、否定的なニュアンスがあるように思われますが、その内実、食べることに対して、きわめて肯定的な営みであるということにもはや気づかれたことと思います。

感謝のうちに食べることができる人は、自分にもその他のすべてのことにも、雑に接することはできないはずです。
それを健康と言わずしてなんというのでしょう。

病気であるかないか、短命であるか長寿であるか、それ以前に、その食事を味わい、その食事から気づき学び、今日も私たちは生かされているのです。

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2014 9/8 (月曜日)

食前の呼吸法

気が焦り、せかせかしていると、どうしても早食いになります。

あまり噛まずに飲み込んでしまうため、胃腸に負担をかけることにもなりますし、味わえないので満足感を得られず食べ過ぎてしまいがちです。

そこで有効なテクニックがあります。

食前の呼吸法です。

世界各国、食前の祈りというものがあります。

日本においても禅宗の五観の偈が 有名ですが、食べる前に居住まいを正し、心を落ち着けていただくための智恵なのだろうと思います。

現代日本でも「いただきます」という素晴らしい言葉が残っていますが、言葉だけが上滑りしがちで、その思想的背景にまで思いを馳せるということがあまりないのが現状ではないでしょうか。

あらためて、食のありがたさ、こうして生かされていることへの感謝の念を思い起こすためにも、「いただきます」をかみしめてみたいものです。

さらに、呼吸を使います。

ホリスティック医学の権威、アンドリューワイル博士が提唱している「くつろぎの呼吸」が簡便でなおかつ効果的に感じています。

鼻から4秒吸います(8分目くらい吸う)7秒止めます(酸素が全身に行き渡るイメージをもって)8秒口からゆっくり吐きます(ネガティブなものが出ていくイメージでもいいでしょう)

この呼吸を3回繰り返すだけで、心身がリラックスし、ゆっくりと感謝して食事をいただけるスタンスが定まります。

合掌して「いただきます」

めまぐるしく忙しない日常から隔絶した食卓にこそ、豊かな食生活というものがあるのだと思います。

決して豪華絢爛な酒池肉林をいうのではないでしょう。

時に気の置けない者と語らいながら、栄養摂取以上のあまりある食卓の意義を見出していきたいものです。

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